開山紹介

勧請開山 徳翁良高大和尚

1649年(慶安2年)8月19日江戸で誕生。姓は藤原氏、母は大曽根氏。

13歳
吉祥寺良重和尚の投ず
15歳
離北良重につき出家得度、以後諸国を歴遊し、渡来の黄檗宗、鉄眼、隠元、獨湛、木庵、潮音に参じ、更に山城の禅定寺の月舟宗胡禅師、蔭涼寺の鉄心道印に就く。
26歳
再び月舟禅師を大乗寺に尋ね留まること3年。
34歳
下総の正泉寺に住す。
35歳
禅定寺の月舟禅師を訪ね、嗣法、衣法を授けられる。
41歳
備後(岡山)定林寺住職
43歳
加賀(金沢市)大乗寺住職
50歳
備後玉島の円通寺を開く。
54歳
元禄9年(1696)備中(岡山)西来寺を復興。
61歳
宝永6年(1709)2月7日円通寺(岡山倉敷)にて示寂。

嗣法の弟子59名、開山寺院は西来寺、円通寺、玉泉寺、光台寺、万能寺、徳昌寺、少林寺がある。
徳翁良高禅師を語るには、まず時代背景が重要になります。当時、曹洞宗は新しい禅宗が中国から入り、本来の道元禅師の教えを重んじる宗風が薄れていました。そこで徳翁禅師の師である月舟宗胡禅師を中心に、もう一度道元禅師の教えを中心とした宗風に戻そうという運動が盛んになりました。月舟禅師亡き後、徳翁禅師はその厳しい門風の意思を継ぎ『西来派』の祖となり、多くの優れた弟子を世に輩出しました。良寛さんも西来派出身の一人です。

著書に徳翁良高禅師語録2巻、続日域洞上諸祖傳4巻、護法明鑑1巻、洞宗或問1巻。
(月舟宗胡禅師…佐賀の人、後に大乗寺に入る。祖規復古運動を提唱し、曹洞宗の中興の祖といわれる)

※勧請開山とは、本来ならお寺を開いた本人が開山となるのですが、自分の師を懇請して迎えることを言います。黙子禅師は師の徳翁禅師の徳を慕い、自ら第一祖となられました。

開闢第一祖 黙子素淵大和尚

1673年延宝元年3月3日佐賀に生まれ、父は馬場頼親母は西氏の女。

15歳
佐賀慶誾寺定水和尚に投じ出家得度。
17歳
諸国を巡りし時、黄檗僧に「本来の面目如何」と詰め寄られて初めて宗門に箇事有ることを知る。
21歳
春、初めて墨江の興禅寺に月舟宗胡禅師を拝す。時に曹渓悟道の因縁を以ってす。師契はず。去って加賀大乗寺に行き徳翁良高禅師に相見随侍す。
31歳
黄檗宗佛日寺(大阪池田)の慧極和尚に相見、極云く「清風一陣來」とその力量を認められる。
33歳
嗣法。武州桶川村におられた徳翁良高禅師と共に夏をすごす。
42歳
1714年正徳4年、西来寺5世となる。
48歳
佐賀慶誾寺15世、在住8年の後、瑞雲庵(伊万里)へ住す。
58歳
野水庵(肥前多久村)開創、3年住す。
61歳
遠州少林寺を開き在住10年。
63歳
少林寺禅堂完成。
68歳
少林寺大殿完成。
71歳
伯州退休寺独住2世。相州福泉寺を開く。
73歳
伊勢(三重県津市)東雲寺完成、末寺となる。
74歳
少林寺2世悦厳素忻和尚が加賀天徳院に転住となり少林寺再住、同年当山にて示寂。世寿74歳(延享3年6月20日寅ノ刻)。

嗣法の弟子57名。授戒拝請寺院23箇所、戒弟延べ3000余人。

結制安居拝請寺院31ヶ寺、結員清衆大凡1500余名。

黙子禅師の法孫は、現在西来派の中でも300ヶ寺を超える大きな一派となっています。

住職地:慶誾15世、西来5世、少林第一祖、退休独住2世、瑞雲庵、野水庵。

開山寺院:瑞雲庵、梅長院、野水庵、少林寺、鑑洞寺、佛眼寺、福泉寺、東雲寺、地蔵院(内、瑞雲庵、梅長院、野水庵、福泉寺、地蔵院は廃寺)

関係著書:『黙子和尚年譜』1巻、『黙子和尚語録』1巻

西来派門風と鬼道場

黙子禅師の頃から、少林寺は『遠州の鬼道場』として数多の名僧を世に送り出してきました。鬼道場と聞くと何か恐しい印象を思い浮かべますが、修行で言うところの鬼とは、他人から厳しく指導される事ではなく、修行に対する姿勢の覚悟が普通ではないという事です。少林寺に伝えられる修行の一例として、ある僧が当山を訪れた時、お寺に人の気配がなく物音もしないので留守かと思ったら食事中でした。修行僧各々の徹底した姿に驚いたそうです。黙子禅師はとにかく法を大切にされた方でした。

西来派

西来派は徳翁良高禅師を祖とする派です。時代は江戸時代初期にあたり、徳翁禅師の師である月舟宗胡禅師が提唱した『祖規復古』を受け継いだ厳しい門派です。
※祖規復古とは道元の大切にされていた、清規、法行を復帰することを目指したことをいう。
大きな特徴として、法を大切にしていたので、西来派の本末関係は師弟関係で成り立ってます。また、法を極める上で臨済、黄檗との交流に柔軟で、優れた物事に積極的にむかう姿勢は、現在もその門風を受け継いでいます。
当山と関わりの深い僧は 永平寺50世玄透即中禅師(正法眼蔵を世に開版した方)、良寛(詩や書なども有名)、頑極官慶(法戦でご存知の水流本皈海、月落不離天の一句をした方)。

黙子禅師にまつわる逸話

『大津東町』

大津行化の折、一頭の馬が腹痛を起こして倒れていたのをご覧になり、その腹掛けに「大津東町」と大書された処、馬の腹痛がたちどころに止んだという。そしてこれより馬の腹掛けに「大津東町」と記することが全国に広まったと伝えられている。

『夜警』

禅師は毎夜二回ずつ、柱杖を曳いて、寺門の内外を巡り点検をされた(今でいう、夜回り、火の用心)。そのため、当村内には夜中盗賊に襲われた例は一件もなく、村民は大いにこれを徳とし、また誇りとしたという。

『鍋島家紋』

当山の寺紋の一つに、肥前佐賀の鍋島家家紋抱き茗荷があります。黙子禅師は当山へ来る前は、肥前(佐賀)の慶誾寺15世として8年住してました。慶誾寺は肥前龍造寺家、鍋島家の母で有名な慶誾尼の菩提寺であり、そのころ何らかの帰依があったとされます。

『天山真龍』

当山の5世真龍禅師は黙子禅師の下で修行の折、一本気な真龍和尚にわざと炊事頭である「菜頭」に任じた、向学心熱い真龍にとっては頗る不満であったがだれよりも早く起き、己の役に精進し、夜は皆が寝静まってから坐禅した。そんなある日七百人の修行僧の指導に赴いた黙子禅師、その中に真龍の姿もあった。そこでも真龍は菜頭を命ぜられ己の配役に不満を爆発させた真龍は黙子禅師の室に怒鳴り込んだ、そこで黙子禅師は『龍よ、汝は何んと愚かなことを云うか。わが洞上(曹洞宗)の諸老師達は皆どんな配役にあっても、全力を尽くして仏道修行に励んで来られた方たちばかりである。だた、これを無為にするかしないかは、道を慕う志の深いか浅いかによる。もし汝が道心堅固なら、どんな配役であろうがなかろうが問題であろうはずがない』この一週間後、真龍は大悟し黙子禅師から、『悟りの境地を護持するのは容易ではない、ますます精進するように』という師弟の逸話もあります。